「好き」の深さは、時に不思議で、時に面白い
最近、娘の趣味が「太鼓の達人」だということを、ようやく本格的に認識した。いや、正確には、ただのゲーム好きかと思っていたら、その“愛”が深すぎたことに驚いている。
家に響く謎の「ドンカッドンカッカッ」
ある休日の夜、リビングから鳴り響く軽快な音。「ドン カッ ドドカッ」……テレビ画面には、赤と青の丸い顔が次々と流れてくる。娘はそれを真剣な顔で見つめ、YouTubeで「神プレイ動画」なるものを鑑賞していた。
「これ、目隠しで叩いてるんよ。しかもフルコン(ノーミス)。ヤバない?」と彼女。
……いや、すごいのは分かる。たぶん。だけど私は、思わず心の中でツッコんだ。「それ、やる方が楽しくないのか?」と。
趣味の深さで、何が好きなのかが見えなくなる瞬間
彼女はただ“プレイする”だけではなく、“見る”ことにも情熱を燃やしているようだった。寝る前も、朝ご飯のあとも、ひたすら「神プレイ動画」を見ている。
私は思った。「これはもう、好きすぎてよく分からないレベルだな…」
そう、人の趣味って深くなればなるほど、他人から見ると何が面白いのか分からなくなっていくものなのかもしれない。
他人の趣味が見えにくくなるのは、実は当たり前?
ふと自分を振り返った。
私はバイクが趣味だ。休日はバイクで峠を走り、夜は車載動画やエンジン音比較をYouTubeで延々と観ている。娘にその動画を見せて「このマフラー音、渋くてさ」と熱弁したら、「何が面白いのか分からん」と言われた。
……お、おう。
つまり、私も“あっち側の人間”だったのだ。
娘の趣味を理解してみようとする試み
「好きってなんだろう?」そう思って、少しだけ娘の視点で太鼓動画を見てみた。
最初は何が何だか分からなかったけれど、丸顔の動きが“音”と一体化している瞬間や、0.1秒のズレもなく叩くテクニックには、確かに惹き込まれるものがある。
「なるほどな。これ、演奏じゃなくて“競技”なんだな」と、ちょっと納得してしまった。まるで、競技を観ているような感覚。
娘はその後も言う。「この人、バチの動きが完璧なんよ」と。もうよく分からない。でも、好きなのは伝わってくる。伝わらないけど、伝わってくる。
私たちは、好きなものを通してわかりあえる
趣味とは、誰かに伝えるものではなく、自分の中で深めていくもの。人から見れば奇妙でも、本人にはかけがえのない世界がそこにある。
だから、「何が好きなのか分からない」と思ったときは、自分にも同じように「説明できないけど、好きなもの」があることを思い出すようにしている。
趣味が違っても、その“好き”に向かう熱量は、案外似ているのかもしれない。
最後に一言
ドンカドンカ響く我が家の週末、私はエンジン音に癒やされ、娘は高速譜面に燃えている。
伝わらなくても、分かり合えなくても。
…我が家の週末は、少し騒がしくて、ちょっと尊い。